ベトナムで最も有名かつ、今もなお国の象徴かつベトナム国民の父として根強い人気を持っているホー・チ・ミン氏。
街の名前になる程のホー・チ・ミン氏ですが、実際にどんなことをしたのか、なぜ人気があるのかを知っている方は少ないのではないでしょうか?
そこでこちらの記事ではホー・チ・ミン氏の経歴や人気の理由をこちらの記事で大解剖していきたいと思います◎
ホーチミン氏の経歴
ホー・チ・ミン(Ho Chi Minh)氏はベトナムの独立運動の象徴的存在であり、ベトナム民主共和国(北ベトナム)の初代大統領です。
生涯は、植民地支配からの解放を求める強い意志をって活動し、その過程で培われた数々の政治経験や強い思想を持ち国民を扇動してきました。
特にベトナム国民からの支持は圧倒的で、『真の愛国者であり、賢明な革命家で、天才的な指導者である』と言われています。
ホー・チ・ミン氏は、その人格や信念、そして独立への献身から「人民の父」として愛され、今日でもベトナム国内外で尊敬を集めているのです。
幼少期~青年時代(1890年~1920年):フランス植民地支配下の貧困と学び
ホー・チ・ミン氏は、1890年5月19日にフランス領インドシナ(現ベトナム)の中心部であるゲアン省のナムダン県キムリエン村に生まれました。
熱心な儒学者の父を持ち、幼いころから家庭内で中国語を学び、愛国心や慈悲の教えを学んでいました。
国の文化と政治の中心地であるフエに 10 年間住んでいた間、彼は多くのフランスの本や新聞、新しい文化、愛国的な学者による反フランス運動についての議論に触れました。
ホー・チ・ミンと呼ばれていますが、本名はグエン・シン・クン(Nguyễn Sinh Cung)で、後にいくつかの名を使い分けながら活動を続けました。
当時のベトナムはフランスの植民地であり、多くのベトナム人が貧困と差別に苦しむ中、ホー・チ・ミン氏もその影響を強く受けました。
青年時代、ホー・チ・ミン氏は労働者の貧困とフランス植民地支配者の贅沢を目の当たりにし、植民地支配に対する不満を抱き、独立への思いを強くします。
そして、独立のために実際にフランスや西側諸国に赴き、彼らが何をするのか考えた後にベトナムに戻りたいと決意しました。
こうして20代の時に外国に渡り、パリやモスクワ・広東など多くの国を旅しながら約30年もの間、西洋の思想や社会主義を学びました。
特に、その中でもフランスでの経験が彼に大きな影響を与えました。パリで働きながらフランス共産党に参加し、マルクス主義やレーニン主義に触れることで、自らの政治的信念をさらに強固なものにしました。
当時フランスでロシア人ジャーナリストにインタビューをした際に『自由・平等・博愛』というフランス語の3つの言葉を初めて聞いたことをきっかけに、現在ベトナムの方針である「独立・自由・幸福」ができました。
独立運動の指導者として(1920年~1930年)
1920年代から1930年代にかけて、ホー・チ・ミン氏はベトナム独立を目指して様々な活動を行います。
1922年には革命活動家たちとともに『Le Paria』という新聞を発行し、人類解放のために戦うことを呼びかけました。
1925年にはフランスの植民地主義を非難する著書の執筆などを通して、マルクス・レーニン主義を広め、労働運動や愛国運動を展開していくのでした。
その後も中国、ソ連、タイなどを転々としながら、アジア各地で独立運動家と交流し、独立運動を支持するネットワークを構築しました。
1930年には、インドシナ共産党を設立し、植民地支配に対抗するための組織的な動きを始めます。
ホー・チ・ミン氏の戦略の一つは、ベトナムの農民を中心とした大衆を動員し、彼らの支援を得ることでした。
農民たちはフランスの支配によって重税や貧困に苦しんでおり、ホー・チ・ミン氏の思想に共感する人々が増えていきました。
彼は常に「人民の幸福」を第一に考え、具体的な改革や福祉の改善を提案し、農民たちの生活を向上させるために尽力しました。
このインドシナ共産党の誕生は国家の歴史に新たな時代を開き、抑圧された民族との独立と自由を求める闘争、民族解放の闘争に導いていったのです。
このように、ホー・チ・ミン氏はベトナムの人々に信頼され、愛される指導者として成長していったのです。
第二次世界大戦と日本の占領(1930年~1945年)
1934年にレーニン国際学校に入学し、マルクス・レーニン主義を徹底的に学びます。
その後戦争の激化により思うように学習が進まない中、ベトナムに戻ることを熱望していました。
帝国刑務所に投獄されるなどの日々を乗り越え、ついに1941年1月に30年もの海外生活を経て帰国を果たします。
1940年代には、日本がインドシナ半島を占領し、フランスの支配が一時的に弱まります。この時期にホー・チ・ミン氏は、独立運動を強化する絶好の機会と捉えました。
彼は1941年にベトナム独立同盟(ベトミン)を結成し、ベトナムの完全独立を目指して活動を展開しました。
1945年の日本敗戦後、ホー・チ・ミン氏はすぐに行動を起こし、9月2日にハノイで歴史的なベトナム民主共和国の独立を宣言します。
これにより、待望のベトナム民主共和国が誕生することとなりました。
この出来事は、ベトナムの歴史における重要な転機となり、ホー・チ・ミン氏はベトナムの「建国の父」として一躍注目を集めました。
フランスとの戦争と独立の実現(1945年~1960年)
ベトナムは独立を宣言したものの、フランスは再びベトナムを支配しようとし、これが第一次インドシナ戦争(1946年-1954年)へとつながります。
ホー・チ・ミン氏は、フランスに対抗してゲリラ戦術を駆使し、ベトナムの軍事力を強化しました。
この戦争は長期化し、多くの犠牲が生まれましたが、最終的に1954年のディエンビエンフーの戦いでベトナム側が勝利し、ジュネーブ協定によりフランスは撤退を余儀なくされました。
この戦いでの勝利は、ホー・チ・ミン氏が率いる独立運動の大きな成果であり、ベトナムの独立を確固たるものにしました。
ベトナム戦争とホー・チ・ミン氏の死(1961年~1969年)
その後、北ベトナムと南ベトナムに分断された状態で、アメリカが介入するベトナム戦争が始まります。
ホー・チ・ミン氏は戦争中も一貫して独立を訴え、平和的な統一を目指しました。
そんな中アメリカ帝国主義による残忍な侵略行為のエスカレートに直面して、彼は「たとえ5年、10年、20年、あるいはそれ以上戦わなければならないとしても、我々は完全勝利まで断固として戦う」と宣言しました。
全国の兵士たちに向けて、「戦争は5年、10年、20年、あるいはそれ以上続く可能性がある。荒廃しましたが、ベトナム国民は恐れることはないと決意しています! 独立と自由よりも貴重なものはありません。 勝利の日には、我が国の人々はより威厳のある美しい国を再建するでしょう!」と語ったのです。
1969年に亡くなるまで戦争が終結することはありませんでしたが、ホー・チ・ミン氏の国民への強い愛情と熱意のこもった言葉により一丸となり戦いは進みました。
そして彼の死後、北ベトナムと南ベトナムは最終的に統一され、1975年にベトナム戦争が終結しました。
その後、南部の都市サイゴンは「ホー・チ・ミン市」と改名され、彼の名は今もベトナムの地に刻まれています。
これらがホー・チ・ミン氏の経歴であり、ベトナムの独立という大きな転機となる歴史なのです。
参考元:
Ministry of Culture, Sports and Tourism
ホー・チ・ミン氏が愛される理由
ホー・チ・ミン氏がベトナムで深く愛され続ける理由は、彼の生涯にわたる献身的な行動と、人民を第一に考える姿勢にあります。
上記の経歴にもあるように、彼は決して権力や富を求めることなく、常にベトナムの人々の幸福と独立を最優先に考えました。
その質素な生活様式や謙虚な態度も、人々からの敬意を集めています。
ホー・チ・ミン氏は、人民のために全身全霊を注いだ指導者として、今日でもベトナムの人々の心の中に生き続けています。
さらに、ホー・チ・ミン氏の思想と行動は、国際的にも影響力を持ちました。
彼はベトナム国内だけでなく、アジアやアフリカ、ラテンアメリカなどの植民地支配に苦しむ国々に勇気を与え、彼らの独立運動にも大きなインスピレーションを与えました。
ホー・チ・ミン氏の「自主独立」の精神は、今日も多くの人々にとって模範であり、彼の遺産は多くの国で尊敬されています。
まとめ
ホー・チ・ミン氏の人生は、ベトナムの独立を求め続けた情熱と、人民への愛情に満ちていました。
彼は、ベトナムの歴史の中で最も尊敬される指導者の一人であり、ベトナムの至るところで敬われています。
そんなホー・チ・ミン氏は、50年経った今もなおハノイのホーチミン廟にて遺体が冷凍保存されています。
ホーチミン廟への入場は私たちも可能で、ホー・チ・ミン氏を見ることもできます。
入場できる日や時間は季節により変わりますが、基本的には午前中のみで行列に並ぶことも多いため訪れたい方は一度確認をしてから行くようにしてくださいね。
筆者も一度行きましたが、荘厳な空間で背筋が伸びる張り詰めた空間でした。
生涯をかけた戦いと国民への献身的な行動で今もなお愛され続けるホー・チ・ミン氏。きっとこの先も敬われ続けることでしょう。